私の病名は双極性障害である物語

双極性障害と共に生きなけばならない日々を振り返りつつ、向き合って生きていく現状と精神病への未だに残る偏見について問題提起もしていけたらと思います。

演劇部4

演劇部では相変わらす、和気あいあいと楽しく部活動を続けていた。

私達が2年になると、新入生が入って来た。

男子2名。女子3名位だったと思う。男子2名の内1人がどうやら私を好きになったみたいだった。でも。告白はなかったから、放っておいた。

例の剣道部の主将を虜にした女子も入ってきた。

高校2年になると、国立 私立理系、私立文系、就職組に分かれる。

私は私立文系に入った。だと言のに、数学Ⅲを選んでしまって後悔先に立たず。

まぁ、優しい先生だったからなんとか単位をとれたんだけどね。

数学Ⅲで何を学んだか、すっかり忘れてしまっている。

多分、英語か日本史の勉強をしていたんだろうと思う。

日本史は、高校3年の時模試で中国地方で第3位を取ったことがある。

演劇部でも、皆が揃うまで、勉強をしていた。

つかこうへい作の脚本を読み合わせ面白かった。

人を笑わせるのは、それなりに大変なことで、反対に泣かせる方は容易いように思える。つかこうへいは、人を笑わせて、かつ泣かせてとすごいことをやってる人ですごい人だなって思ったもんだ。

 

そんな友人も最近はもう結婚して、出産目の前。

何をプレゼントしたら喜ぶのかを考えていて、

ネットで色々調べていて、あったのがこれ

妊娠線予防クリームっていうやつ。

妊娠中の友達に聞いて初めてこの存在を知ったのだが。。。

結構妊娠中はおなかも大きくなるので、おなかの皮膚が破れそうに

なるので、注意が必要らしい。

 

それで、この妊娠線予防クリームを塗っているとその予防ができるみたいだ。

 

 

 

 

猫のるかとスキップネコ

るかは捨て猫だった。しかも、生まれて親のお乳も飲んでいないような小さな小さな子猫だった。

るかは、海のトリトンが乗っていた、イルカの名前。

るかはすくすく成長して、おばあちゃんの膝の上に乗って寝たり、冬にはストーブの前で、毛を焦がしていたものだ。

春の夜は夜遊びに出かけて、12時頃私の部屋へ帰ってきた。

窓をこつんこつんと叩いていれろって言ってくる。だから、窓を開けてやると、

にゃーんとひとこと言って人の布団に入って来る。

るかは赤ちゃんを産んだ。殆ど人に引き取られていったけど、残ったのがスキップネコ。男の子。るかは、ネズミやセミ、スズメやハトも採って来てたけど、スッキップネコは、何にも採ってこなかった。

やっぱりるかは野生の子だったからかな?

るかは、大きくなってもカボチャの煮物は食べていた。スキップネコはカボチャの煮物は食べなかったな。

スキップネコはある寒い冬の朝。お風呂の蓋の上で死んでいた。

前日はなんともなかったのに。スッキプネコの為に一石五輪塔を盗んで?来て、お墓を作ってあげた。

 

 

 

演劇部 3

私が高校1年の終わり頃、2年生の男子M先輩と3年生の女子K先輩が付き合っていることを知った。それ位だったら普通なんだけど、なんと、K先輩が妊娠したってこと。

二人とも、真剣に結婚するつもりだったし、二人の両親とか、先生とかどうなったのか知らないけど、結局二人は高校を卒業して結婚した。

その後の二人には会ったことはないけれど、あの時の子どもが成人した頃、離婚したそうだ。K先輩は割と早く再婚したみたい。

昔から小悪魔的な美人だったからな。それに比べて、M先輩はどちらからと言うとあまり気が利くタイプではなかった。

私はと言えば、恋には程遠く、男っぽいと思われていて、女子に人気があった。

剣道部の主将には恋に破れ、次に好きになったのは、世界史の先生だった。

いや、世界史が好きだから、先生を好きになったのかも知れない。

 

この頃、子猫を拾った。川に捨ててあったのを小学生の子たちが拾って騒いでいた。

濡れそぼって、弱弱しかった。

私はその子猫を家に持ち帰り、ケーキの箱に入れておいた。しばらくして見ると、ふわふわの小さな子猫に変身していた。

その日はカボチャの煮つけだったので、それをやると食べていた。

母を説得して飼ってもいいと許して貰った。子猫の名前はルカとした。

 

 

 

演劇部2

学校の授業が終わったら即、演劇部に行っていた。

2年生になると今度の県大会に創作劇を作ろうと言うとこになった。

皆で、脚本を書いてくることになった。私も一生懸命に頑張ったけど、あんまりうまい話しは出来なかった。中で一人、タイトルは『梅の精』だったと思う。いい作品があった。色々いじって、中々の作品に出来上がった。

私はチョイ役で村の悪ガキで登場した。結果、創作賞と舞台美術賞を貰った。

 

他、2年の文化祭では、『黒い太陽』と言う名の沖縄で暮らす黒人の米兵を父にもつハーフの女の子の役。主役で初めから最後まで舞台に出ずっぱりだった。

約1時間程度の芝居だから、必死でセリフを覚えたものだ。

黒人を父に持つ故に、差別される少女の苦しみと悲しみを表現しなくちゃいけないから、大変だたと思う。

最後は銃で撃たれて死んでしまうんだけど、少し悲しい終わり方だった。

 

演劇部では、毎日おはようございます、があいさつであ始まる。

それと、発声練習。あえいうえおあお、かけきくけこかこ、、、いろはにおえどちりぬるおわか、、、、、てな具合に大声でやる。もちろん、腹から声を出す。

 

 

演劇部1

演劇部の友達はかなり仲が良かった。文化祭には皆一丸となって、一つの劇を作って行く。確か、春雷と言う劇だった。主人公を演じたのは男の先輩だった。

受験を控えた受験生の役、他母親役と妹役がいたと思う。私はスッポットライト役。

終わった時には見に来てくれた生徒たちも拍手をしてくれたし、私も嬉しかった。

なんか、一つのモノを皆で作るからなのか、演劇部ってホント纏まってたな。

何故か、剣道部の主将がさぼりに来てたけど。

あいつは、2年になった時、新入生で入って来た演劇部の女の子に一目惚れして、私に仲介してくれって言ってきた。

それはないやろ?私はあんたのこと好きやったのにね。

仕方ないから、紹介してやったよ。必死で口説いたな。結局付き合うことになったみたい。しばらく立ち直れなかった。私っていつもこんなの?

周りは私とあいつは付き合ってるって思われてたのにな。あーつらか!

それでも、周りには失恋したそぶりは見せず、なんとか乗り切った。

1年の間は脚本読みが中心の活動だったけど、楽しかった。

私は、何故かアップルパイに目覚めて、週1位で作って演劇部に持って行っていた。

評判は良かった。練りパイじゃなく、折りパイで作ってたから、大変だったんだけどね。

 

演劇部の友達

演劇部の友達とは未だに交流がある。

あの頃、演劇部は照明もやってたから、音楽をやってる子達に頼まれて照明係をやった。

スプリングコンサートと言って、毎年春、彼らは市民会館を借りてコンサートをやっていて、演劇部が照明係として参加するのだ。

私が1年の時はスポットライト役をやった。中々面白い体験だった。

コンサートに出るのは、広大のバンドとか、地元のバンド、アマチュアのバンドなどだった。私は広大のスッキップネコって言うバンドのベースのNさんに一目惚れしてしまった。やっぱ、ギター持つとカッコいいんだな。きっと。

告白はできなかったけど、未だに思い出す。今はどうしてるんだろう?

コンサートは観客は5、60人位は来てくれたと思う。

このスプリングコンサートで出演していた人の中からプロになった人が一人いる。

もう一人は自宅の隣に完全防音のスタジオ作って、今でも音楽作ってる。

お好み焼き屋さんを片手間にやりながら、出来たDVDはお客さんに無料で配ってる。

更に、もう一人は、ライブ喫茶を作ってやってるらしい。機会があればいってみたい。

 

 

演劇部

高校3年間すっと演劇部だった。演劇部近くには剣道部があって、よく剣道部の連中がさぼりに来ていた。

最初は脚本を読んだり、枕のマクラがマにアクセントを置くのか、クにアクセント置くのかなどと、話あったりした。今思えば、アクセント辞典があったはずなのにな。

一番覚えているのは、人間は最後になったらどうするか?と言う命題だ。

設定は雪山で救助も望めず、食料もあと僅かになった時人はどうするか?だ。

私は他の人と寄り添て温めながら、救いを待つと答えたけれど、数人は、孤独になって自分の安全を守ると言った答えだった。それは、人が人を殺して食ってしまう可能性を示唆してのことだった。

なんやかんや、午後7時頃まで、話は尽きることはなかった。

顧問の先生に言われて渋々帰ったものだ。

学校の方では、クラス委員をやったり、運動会では応援団長もした。

学校の規律はそれ程厳しくはなかったけど、私の誕生日の日。赤いソックスを履いて行ったら、体育の指導の先生に怒らた。脱いだのか?それとも無視したのか?

忘れた。なにせ、あの体育の先生は昼間から酒を食らって歩いているような先生だったから、先生としては、不合格やな。

 

高校生1年になって

高校生活は楽しかった。

家の宗教と父の虐待を忘れさせてくれた。

1年は、木造校舎で冬はストーブしかなく寒かった。

部活は演劇部に入った。

歴史系の部がなかったのと、アニメオタクを引きずっていて、チョット声優さんにも憧れたいたからだ。

何故か、他所の高校から男子生徒が私を目当てに来ていた。未だ、恋にはうとかったから、恥ずかしさが先に立ってチョット顔を出すだけだった。

それも、周りの学友たちにせかされての話だ。

勉強は社会、国語、英語は頑張ったけど、数学、物理、化学は適当に頑張った。

高校3年を通して、社会だけは、10だった。

部活は、女子がメインで男子は同級生は1人だけ。先輩たちも概ね女子が多く、男子は1人か2人くらいだった。

私が演劇部の門を叩くと、既に私の評判が伝わっていて、変人とか変わってるとか、その手の評判が伝わっていた。

何が変わっているのか解らなかったけど、私は演劇部に馴染んでいった。

結局、他の奴らも変わっていたのだ。類は友を呼ぶと言うがその通りだったわけだ。

 

 

中学から高校へ

中学3年の終わりになると、結構緊張した空気が漂っていた。

最低でも公立。私立に行くと恥。500点満点で350点を取れば、公立は楽勝だった。

私は、350点ラインをウロウロしていた。

A君たちはもっと上の学校を狙っていたから、450点ラインだった。

私達が通っている中学の隣にとても可愛らしい偏差値の女子高があって、皆であそこだけには行きたくないと言っていたものだ。

 

中学に入ると、アニメ関係で友達ができた。

当時、宇宙戦艦ヤマトに始まって、ガンダムハーロックなど。

漫画も中学になって初めて読んだ。考古学も忘れてはいなかったけど、漫画やアニメにも傾倒していった。中々に、楽しい中学生活だったと思う。

漫画仲間からは一人プロの漫画家になった奴もいる。今も描いている。

私も結局、考古学への道は忘れることなく、学者にはなれなかったけど、発掘調査員として、頑張ってきた。もう一人作家になると言っていた奴は、地元でスーパーのレジをしていた。

夢を現実にできる者とできない者がいるんだね。

 

中学を卒業して、皆夫々高校へ進学して行った。中には、お父さんの散髪屋を継ぐ為に修行に出た奴もいた。K子は隣の女子高に進学した為、卒業式でも小さくなっていた。

私は小学校から続いた因縁深いこの小中一貫校とおさらば出来るのが嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

中学に