私の病名は双極性障害である物語

双極性障害と共に生きなけばならない日々を振り返りつつ、向き合って生きていく現状と精神病への未だに残る偏見について問題提起もしていけたらと思います。

   寒いよね、こんな日は毛布に包まって寝ていたい

  さて、双極性障害、略して躁うつは原因はよくわからない。

  また、特効薬もまだない。

  これらが発見されればノーベル賞ものであることは確かである。

  私が躁うつになったきっかけや、症状や、出来事をつづっていければと思う

  これらを知るにはまず、私の幼い頃からの物語から始めてみようと思う。

  基本編年体で記述するつもりではあるが、エピソードも加えることもあるだろう。               

  時間軸が歪む場合もなきにしもあらず。

 

  思い出せるのは3歳の頃。3年保育の幼稚園に通っていたから、赤組だった。

  普通女の子は赤いバックに赤い長靴、赤い傘が相場だが、私は青いバッグに青い長   

  靴、青い傘を駄々をこねてねだった。その記憶はある。

  しかし、幼児の異端視は過酷だったらしく、おーとーこーと、いじめられたらし  

  い。

  雨の日に下駄箱の前で青い傘、青いバック、青い長靴を履いてただ、立っていた記  

  憶がある。

  結局、すべて、黄色で落ち着いたらしい。これは母の談。

  私はパーソナリティー障害の病名も付けられたこともあるが、医師によって付いた  

  りつかなかったりと、よくわからない。

  特に赤組の時期が幼稚園に行きたくないと泣いて騒いでいたようだ。酷いときは、   

  祖母が幼稚園まで付いてきて終わるまでいてくらしい。

  トイレも幼稚園のトイレではできなくて、帰りの道端でおもらしをしていたもの  

  だ。

  いつも、祖母がパンツとくつを持って迎えに来てくれた。惨めな思い出だ。

  その後、黄色組、青組と進級するころはおちついたようで、殆ど記憶がない。

  殆どの子がそのまま同じ敷地内にある小学校に進級するのに対し、私と数人だけ国  

  立の小学校へ進級したせいもあるのだろう。

  ただし、私の地獄はここで終わったわけではない。

  今日はさようなら つづきます