私の病名は双極性障害である物語

双極性障害と共に生きなけばならない日々を振り返りつつ、向き合って生きていく現状と精神病への未だに残る偏見について問題提起もしていけたらと思います。

小学校1年生の頃の私

私は、読書が大好きだった。

一日2冊借りて~一日2冊しか借りれなかった~休みの時間に1冊読んで、

放課後一冊返して、また1冊借りた。

バス通学だったので、その時は読めなかったけど、酔うからね。

を降りて、家に帰る途中歩きながら、読んだ。家まで、2キロ位あったから、結構よめた。時々、駐車中の車にぶつかる時もあったけどね。

こんな感じの女の子だったから、多少友達もいたけど、男の子には本の虫とか目玉とか

色々言われたもんだ。

勉強は、真面目にやってたと思う。

でも、学校をずる休みしてたこともある。

コタツに水銀体温計を入れると温度が上がるから、それを使って熱があるから休むと言って休んだことが時々あった。

今思うと軽いうつだったのかな?

丁度この頃、妹が生まれた。

両親と祖父の愛は妹へ注がれるようになった。祖母と祖祖母は相変わらず私を大切にしてくれた。

物心付いてない頃に下の子が生まれたら、そうでも無いんだろうけど、6歳違いだと明瞭に覚えているものなのだ。

学校でも行き場がなく、家でも行き場がなく、私の場所は本の中だった。

私は本の中で、主人公になって王女様になったり、白豹になったり。

そんな感じで1年生を終える。

 

 

 

   さて、小学校に入学してみたものの。。。

  国立の小学校に入るにはテストが必要だった。どんな試験だったのか、殆ど覚えて  

  いない。覚えているのは、ビデオを見せられて、子供が食卓に着き、手を合わせ何  

  かを言って、ご飯を食べ終わるとまた手を合わせまた何かを言って席を立つもの  

  だった。答えは、もちろん、頂きますとごちそう様だ。もう一つは平均台を行った  

  り来たりするもの。簡単なテストだ。でも、平均台が出来ない子もいたからな。

 

  私は見事?合格し、そのF小学校に通うことになった。中学も併設されていた。1  

  学年に2学級しかなく、少数精鋭とでも申しましょうか、そんな学校だった。母に  

  言わせるとPTAでは所謂、教育ママが多かったそうな。

  そんな中私と言えば、1月生まれだったので、早生まれなので4月、5月生まれの子 

  どもらに比べると、ちっこいし、痩せてるし、顔も小さかったけど、目は大きく

  て、絶好のいじめ対象になってしまった。1,2年は1階で、3.4年は2階、5.6年は3階 

  に分かれていた。決定的になったのは、私が1階のベランダに出ていた時、3年の多 

  分男子がタンを落とし、それが私の頭の頂上に直撃したことだ。キャーとか女子の

  悲鳴を聞いた気がする。優しい女の子が水道の所へ連れていてくれて、頭を洗っ  

  た。

  でもね、一度穢れたものって何かしら、異端なモノに変化すろものらしい。

 

  さて、今日はこれでお仕舞です。また今度

 

 

   寒いよね、こんな日は毛布に包まって寝ていたい

  さて、双極性障害、略して躁うつは原因はよくわからない。

  また、特効薬もまだない。

  これらが発見されればノーベル賞ものであることは確かである。

  私が躁うつになったきっかけや、症状や、出来事をつづっていければと思う

  これらを知るにはまず、私の幼い頃からの物語から始めてみようと思う。

  基本編年体で記述するつもりではあるが、エピソードも加えることもあるだろう。               

  時間軸が歪む場合もなきにしもあらず。

 

  思い出せるのは3歳の頃。3年保育の幼稚園に通っていたから、赤組だった。

  普通女の子は赤いバックに赤い長靴、赤い傘が相場だが、私は青いバッグに青い長   

  靴、青い傘を駄々をこねてねだった。その記憶はある。

  しかし、幼児の異端視は過酷だったらしく、おーとーこーと、いじめられたらし  

  い。

  雨の日に下駄箱の前で青い傘、青いバック、青い長靴を履いてただ、立っていた記  

  憶がある。

  結局、すべて、黄色で落ち着いたらしい。これは母の談。

  私はパーソナリティー障害の病名も付けられたこともあるが、医師によって付いた  

  りつかなかったりと、よくわからない。

  特に赤組の時期が幼稚園に行きたくないと泣いて騒いでいたようだ。酷いときは、   

  祖母が幼稚園まで付いてきて終わるまでいてくらしい。

  トイレも幼稚園のトイレではできなくて、帰りの道端でおもらしをしていたもの  

  だ。

  いつも、祖母がパンツとくつを持って迎えに来てくれた。惨めな思い出だ。

  その後、黄色組、青組と進級するころはおちついたようで、殆ど記憶がない。

  殆どの子がそのまま同じ敷地内にある小学校に進級するのに対し、私と数人だけ国  

  立の小学校へ進級したせいもあるのだろう。

  ただし、私の地獄はここで終わったわけではない。

  今日はさようなら つづきます