私の病名は双極性障害である物語

双極性障害と共に生きなけばならない日々を振り返りつつ、向き合って生きていく現状と精神病への未だに残る偏見について問題提起もしていけたらと思います。

中学生と宗教と虐待の狭間の中で

中学生になって学校では少しイジメをしたものの、罪悪感に悩まされ、早めにやめた。

社会の成績は良かったけど、理数系はパットせず、A君やら他の子に教えてもらってなんとか授業に付いていってた。国語、古文は別に何も勉強することもなく、成績は良かった。漢文もそうだった。多少は勉強したけれど。

英語もまぁ、普通ってところかなぁ?

でも、家に帰ると夕飯に父がお酒を飲んで、それを祖父があんまり飲むなとか。色々、窘めると、あ、今日は来るなと感じる。

やっぱり、離れの私の部屋へ父がやって来て、おい!勉強しょうるんか!してるよと答えると、ほんまかぁ!と目が座っている父が部屋へ入ってくる。

手や足で背中をどつかれ、父の気分が晴れたらようやく出て行ってくれた。

 

私はこのことを、大人になるまで誰にも言うことは出来なかった。

父に殴られて、涙が止まらなく朝目が腫れて学校に行った時も、友達にはうつむきに寝てしまってん、と言って誤魔化すしかなかった。

 

母や祖父たち、そして妹たちは宗教の仲間としてかたまっていて、なんとなく疎外感を感じていた。後に、真ん中の妹はカンカンに宗教にこり固まってしまった。

中学も3年のなると高校受験が話題になる。

やはりA君たちは、偏差値の高い高校へ進む予定みたいだった。

 

 

新教宗教の中で、壊れていく私

小さい頃から、母や祖父、祖母曾祖母は新教宗教の信者だった。

とりあえず、T教としておこう。

父は婿であったが、何故か信者にはなっていなかった。

毎週水曜の午後7時から近くの信者が集まってきて、集会が始まる。

お祈りをし、懺悔をし、最後にまたお祈りをして終わる。後は少し雑談をして9時頃終わる。

しかし、高校1年生になった時、教団の出している本を読んだ。

母達はただ、出版したから買っただけで読んではいなかった。

5冊ほどだったと思う。毎月出しているものは、信者が書いていて、教団をほめちぎっているもので、つまらんものだ。

前者の5冊ほどを読んでみると、矛盾が一杯あった。例えば、魂は一定だと唱えているが、人口は増えている。教祖の孫が教団を継いでいるが、教祖は孫は26で結婚すると予言していた。しかし孫は既に30を超えても独身だ。結婚は結魂と書く。合掌は合正。信仰は神行。ほぼダジャレだ。

母に話をして、私はこの宗教をやめると宣言した。母も説得したが、私を留める説得力はなかった。こうして、毎週水曜の集会には出なくて済むようになった。

しかし、離れにいた私の部屋へ父がやって来て、虐待が始まった。

最初は祖父が父に嫌味を言った時だけだった。やがてエスカレートして、毎週水曜に

何もしていない私に殴る蹴るの暴力が始まった。この虐待は高校卒業するまで続いた。

 

 

中学生になった私 2

なにはともあれ、私もささやかな恋をした。例のK君だ。

でも、わからない問題を聞くのが恥ずかしっくて、隣のK君に聞かずに

後ろのM君に聞いていたから、なんだか皆私がM君のことを好きだって勘違いしてたな

中学1年の時、同和問題を取り扱った。その時の先生がF。

Fは同和出身のT子を自ら暴露させ、クラスの問題として話し合いをもった。

今でも、それが良かったのか悪かったのか,わからない。

何故か、Fは私のことを気に入ってたらしい。これは、同窓会で他の男たちが言ってた。私はそんな記憶はない。

それより、郷土研究会で近くの古墳を見に行ったり、そういった類の本を読んだりした。家では少しは考古学の話をしたけど、親は本気にはしてなかったみたいだ。

 

私の母はある新教宗教をやっていた。祖父からの受け継ぎだ。

あくまでも、信心しているとは思えない。やっているとしか思えない。

踊る宗教と言えばピンと来る人はいるかも知れない。私も生まれた時からその世界にいたから、なんの不思議もなく、そんなもんだと信じていた。そう、高校生になって

教団が出した本を読む前までは。

だんだん、悪夢が出てきたようだ。

中学生になった私

中学生になると、俄然活発になった。

恋もした。初恋だった。相手はA君。友人Nが好きになったA君だ。

こ゚の頃、鏡を見て私って綺麗じゃないの?って思うようになった。

だって、目は大きいし、口は小さいし、鼻も普通だし、顔も玉子型。

身長は160センチで、体重は48キロ。

欠点は胸が無いこと位じゃない?

今まで、さんざん言われて来たから、自信なんてなかったからな。

両親すら可愛いなんて言ってくれなかった。

学校では、クラス委員をしたり、図書委員をしたり。親友もできた。

ただ、その親友が悪友になるとは思わなかった。

悪友Kは私にタバコを勧めた。一本吸ってみ、と。吸ってみたけど、めまいがするし、

その時はそれでやめていた。しかし、今度は同じ班の女子をはみ子にしようといいだし、無視を始めた。私も最初はそれが面白かった。

今まで、いじめられたから、今度はいじめる立場になって気分がよかった。

でも、後ろめたさがあった。しばらくして、Kにやめようよと言ってやめさた。

今思えば悪友Kと出会ったのが失敗だった。

数回、夜中家を抜け出してKの男友達の家に行き、遊んだこともある。

私は漫画を読んでいたが、Kは何をしていたんだろう?

Kは首筋のアザを見せて、なんだかわかる?って聞いてきて、どしたん?

って聞くと。やっぱりねぇYにはわからんわぁ。と言っていた

今ではキスマークってわかるけど、あの頃はわからなかったもんね。Kはませていたわけだ。今は近くでマッサージ屋してる。けど、絶対に会いたくないね。

 

考古学と言う言葉は決して忘れなかった

小学校5年に出会った考古学と言う学問を私は決して忘れなかった。

やがて、6年になり、中学生も視野に見えてきた。と、言っても

隣の校舎ではあるが。

色々、噂が流れたものだ。テストの成績が悪かったら、中学に進めないとか。6年の3学期になると、なんとなくクラス自体がそわそわしていたような感じがしてた。

中学の入学式があった。中学から新しく入って来た子が10人程いた。

所謂、中学受験を突破して入って来た子達だから、流石に頭はよかった。

確か、知能テストを受けた。その中で新入生のA君は140点を取っていた。私は120点だったから、平均より少しいいだけだ。

後に、A君は東大行けたけど、一ツ橋大に行った。就職は国鉄、今はJR東日本だと思うけど、その後は知らない。

もう一人、一ツ橋行った男の子は、日本興業銀行入ったけど、

倒産して、その後は知らない。

チョット横道にそれたけど、私は郷土研究会に入った。すると

かれら、A君や銀行に入った子O君もいた。なんだか、私の周りには、頭のいい子がいて、お陰で、家庭教師が無料でいたってわけだ。私は文系は出来たので、数学、物理、化学、科学を教えてもらった。

こんな頃、淡い恋心なんてものも生まれて来る。

私の友人がA君を好きになって、同じクラブで同じ班の私に、なんでもいいから、A君の情報を教えて欲しいと頼んできたのだ。

よくある話だね。

おっと、考古学とずれた話となってしまった。また今度にしよう。

 

 

 

心の灯~考古学への情熱

『心の灯~考古学への情熱』の中身は、在野の考古学者藤森栄一氏が長野県諏訪湖で、ナウマンゾウの化石を発掘をするというものだった。

毎年2月から3月頃、諏訪湖の水が引いた頃ボランティアが集まって藤森氏を中心として発掘をするのだ。私も行ってみたかったが、しょせん、小学5年生。無理だった。

しかし、社会の勉強は俄然一生懸命するようになった。

この頃は、勉強も運動もかなりするようになっていて、友達も大勢できていた。

相変わらず、読書は続けていた。図書委員になったのもこの頃だったと思う。

足は遅かったけど、リレーの選手に立候補もした。惜しくも予選で敗れたけど。

躁状態だったのかも知れない。

ただ、心の中に考古学の一文字は決して忘れることなく留まった。

その時は、漠然と大きくなったら考古学者になると思っていただけだけど。

だから、後に中学になって郷土研究会に入ったのもそのためだ。

家に帰ればどうしていたかと言うと、同級生は男子が1人と年下が1人の計3人しか遊び相手はいなかった。

だから、三角ベースとか、缶けりとかビー玉とか限られた遊びしか出来なかった。女の子がよくするお人形遊びは経験がない。

ここから先、私の心の半分を占める悪夢を語らねばならないが、今はこの時ではないだろう。

 

 

小学校5年生、転機の訪れ

5年生になると、自転車通学ができるようになった。学校から4キロ以上ある子たちが条件だが。

この頃、早い子で生理が始まった女子もいて、体育の時間、男子はスポーツをしているのに、女子だけ性教育を受けていた。

一つ解らなかったのは、突起と穴をどうやって入れるかってこと。

今じゃわかるけどね(-_-メ)

そこを説明してくれなきゃ、説明不足だわ。

また、5年になると、学校の敷地内にある小屋?に班ごと1泊2日で泊まる合宿みたいのがあった。女子は数人でお風呂入って、キャーキャー騒いでいた気がする。

なんだか、私も明るくなっていたみたい。

軽い躁状態だったのか、それともイジメがなかったせいか。

この時の担任の先生はよく覚えてる。

厳しい先生だったけど、生徒のこともよく考えてくれていたと思う。

私は、相変わらず痩せていたけど、身長は伸びてきていた。158センチくらいにはなっていた。

この時ある本に出合う著者 藤村栄一『心の灯~考古学への情熱』だ。

これで、この世の中に考古学と言う学問があるのを知った。

そして、私も考古学者になることを決心した。

小学校4年生からの私

何故か、4年生になると、一転、明るくなったというか、友達も出来た。

クラス替えがあったせいもある。

4年から大休憩と言うものが出来た。

2時間目と3時間目の間に20分の休憩ができたのだ。

私の通ってた小学校は、国立で、いわゆる実験校でもあった。

詳しいことはよくわからないが、当時の文部省の通達を受け入れて進めていく感じなのかな?

多分、運動不足が関係してたのかも知れない。

そんなことは露知らず、私たちは、大綱とびに夢中になって遊んでいた。

他の10分休憩は相変わらず本を読んでいた。

昼休憩も大綱飛びで遊んでいたと思う。

運動量が増えたせいか、給食もなんとか食べれるようになっていった。

それでも、図書室と、保健室は私の何かあった時の行き場所だったな

この頃から社会は好きだった。でも算数は苦手だった。

今思えば、英語があれば良かったと思うね。

今、日立製作所が全面提供している、世界不思議発見の元祖番組。

名前は忘れたけど、レポーターが世界をめぐる番組は大好きだった。

大きくなったら、そんなことしたいって思ったものだ。

おやすみ

 

小学2年生の頃~3年生の頃

2年生の頃はあまり覚えていない。

多分、ひたすら本を読んでいたんだと思う。

近所の人には、二宮金次郎みたいと言われ、あんまり嬉しいとは思わなかった。

だよね?あの頃、どこの小学校でも二宮金次郎の銅像は校庭の片隅に立っていた。

青銅製で、暗いイメージしかない。

私が3年になった時、ご飯給食が始まった。元々小食でパンですら、やっとのことだったのに、ご飯となると、尚更食べれない。

当時、給食は残してはいけないと言う教育方針だったから、地獄だった。

お昼の休憩時間が始まってもひたすら残りのご飯を見つつ、心の中でームリムリーと叫んでいた。同じ班の男の子は、おちんちんを出して、私のご飯の上に乗せた。

絶対無理!

でも、そのことを、先生には言えなかった。

あの残飯が、どうなったのか、覚えていないが食べてはいない。

私が、母にいじめのことを話すと、母が先生に伝えたらしい。

そして、あの日が来る。

学級会の1時間を割いて、「○○をどうしていじめるのか?」

と言うタイトルで話し合いが行われた。

目が大きい

痩せてる

不潔

声が小さい

本ばかり読んでる

食べるのが遅い

他にもあったと思うけど忘れた

先生が目が大きいのは○○のせいではない

痩せてるのもそうだ

不潔なのは、○○が努力すればいい

などと、説明し、かなりの同級生が納得したみたいだった。

それを機に私に対するいじめは終わった。